来年4月末には天皇陛下のご譲位が予定されている。
ご譲位はこれまで皇室典範が全く予想していなかった。しかし、憲法が要請する「国民統合の象徴」としての役割を天皇が果たされる為には、ネガティブリスト方式による「象徴としての行為」(=公的行為)が欠かせない。憲法にリストアップされた(ポジティブリスト方式の)国事行為だけなら、「臨時代行」なり「摂政」の設置なりで対応は出来る。だが、象徴としての行為は無理だ。だから天皇ご自身が、高齢による身体の衰えなどの理由で、象徴としての行為を十全に果たせなくなられたと自覚され、ご譲位を望まれた時は、それを可能にする法的な枠組みが必要だ。従って、今回の法整備は当然かつ不可欠の措置だった(皇室典範の本則の改正でなかった点は不十分ながら)。ところが政府は、天皇陛下のかねてのご憂念にも拘らず、何の取り組みもしないで、いつまでも事態を放置し続けていた。そこで平成28年8月8日に、陛下ご自身のご主導と内閣の同意と責任によって、ビデオメッセージが公表される。これによって、陛下のご譲位へのご意思は満天下に知れわたった。圧倒的多数の国民は、陛下のご意思が速やかに実現される事を希望した。同メッセージが“内閣の責任(!)”で公表された以上、政府はその実現に一路邁進するのが当たり前。ところが安倍政権は、何を勘違いしたのか、あたかも陛下の「おことば」が無かったかのように、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(!?)
なるものを立ち上げて、いきなり目を覆うような迷走を始めた(思い出しただけでも不快極まる!)。これに真っ向から対峙したのが分裂前の旧民進党だった。早々と党内に「皇位検討委員会」を設置し、有識者ヒアリングなど精力的な取り組みを進めた。事態を大きく転換するきっかけになったのは、同年12月21日に同党が政府の有識者会議に先んじて、後に有識者会議が発表したレポートを質量共に遥かに上回る「論点整理」を公表した事だった。これによって、
民進党のこの問題に対する「本気度」が並々ならぬ事を、
大島理森衆院議長が察知した。そこで翌年1月、大島議長は、他ならぬ「国民“統合”の象徴」たる天皇陛下のご譲位を巡って、国会が紛糾・混乱するような事態は何としても避けるべく、与野党協議の場を設ける為に動き始めた。これまでの各党の政治的な対立を乗り越えて、国会の全政党・会派が一堂に会し、冷静かつ理性的な協議を通じて、最も妥当な着地点を探ろうとしたのだ。そこでの最大の論点は何だったか。陛下のご譲位は必ず実現しなければならない。だが、それが実現した場合、今回のケースが憲政史上初めて(!)のご譲位となる。結果的に、
将来の重要な“先例”となるのは避けられない。ならば、この度のご譲位で、果たしてしっかりした
「恒久的ルール」を設けられるか。その点こそが最も切実に問われた。与党側は当初、「一代限りの例外的措置」という考え方で、“ルール作り”への意識が全く抜け落ちていた。これに対して、民進党が提案したルールは以下の“3要件”。1、天皇のご意思に基づく。2、皇嗣が成年に達しておられる。3、皇室会議が関与する。これらは全て(!)「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に盛り込まれた。その上、ルールの「恒久」化を改めて約束する政府答弁も引き出している。「この法案の作成に至るプロセスや、その中で整理された基本的な考え方については、将来の先例となり得る」(平成29年6月1日衆院議院運営委員会での馬淵澄夫衆院議員の質問への菅義偉内閣官房長官の答弁)と。「プロセス」というのは、与党が数で押し切るのではなく、公正な協議の場を設けて、慎重に全政党・会派の一致を目指した事実を指す。それ自体も“規範化”されたと見てよい。同年6月、遂に特例法が成立した。この間、私が直接に関わったのは民進党の「論点整理」の仕上げの場面と、与野党協議の際の理論的なバックアップなど。ほんのささやかなお手伝いに過ぎない。それでも、同年10月20日にご発表になった、皇后陛下のお誕生日に際しての文書による「ご回答」に、以下のように言及して下さっていたのは、深く胸に迫るものがあった。「陛下の御譲位については、多くの人々の議論を経て、この6月9日、国会で特例法が成立しました。長い年月、ひたすら象徴のあるべき姿を求めてここまで歩まれた陛下が、御高齢となられた今、しばらくの安息の日々をお持ちになれるということに計りしれぬ大きな安らぎを覚え、これを可能にして下さった多くの方々に深く感謝しております」―恐縮至極。
畏れ多いお言葉だ。